東海三県庭園探訪記(日本庭園Ⅱ) 山高 佳雄
2.永保寺庭園(虎渓山)岐阜県多治見市虎渓山町

平成21年2月15日(日) 晴、永保寺庭園を訪問した。大変穏やかな暖かい日和であった。写真撮影には良い日で静かなのんびりした風景がそこにはあった。 反橋「無際橋」が工事中で残念であった。

永保寺庭園について
「虎渓山」といわれるが、正式には臨済宗南禅寺派虎渓山永保寺という。人々からは「虎渓山」と廻りの山川を含めて呼ばれている。 起源は、開創であるといわれている夢窓国師が、正和2年(1313年) 法弟仏徳禅師他七名~八名と遠江国(静岡県)から行雲流水の途すがら当地美濃国(岐阜県)長瀬山に来られ地形を賞して「山水天開画幽境」と評されて隠棲の地と定め、草庵が建てられた事に発している。

山号は国師が草庵に篇額して「古渓」を称されたことに由来している。現在の虎渓は、この地が中国江西省九江の南にある慮山の虎渓に酷似していることから付けられた。 周囲の景観は、今日も尚幽趣に富んだ四季を通して楽しませてくれる景観である。 土岐川の清流の音を聞きながら永保寺庭園を眺めると、古しえの鎌倉時代夢窓師が開創し開山したことがほうふつとして解るような気がする。 庭園は、鎌倉時代観音堂落成と同時期に作庭されたと考えられている。 庭園について、夢窓国師は正和2年(1313年)39歳でこの地を訪れ、人里離れた山水の景色は図画を開く趣があると大変悦んだという記録がある。 土岐氏の古図を慕う心から古谿と名付けた。「蒼山目録の長禄3年3月8日に古谿に園地があったと記されている。」 鎌倉時代に夢窓国師が築造した禅林庭園である。国師は水月道場を建立し、無際橋を架け泮地にした。水月道は現在観音閣として保存されている。 庭園の面積は約2,800坪(9.240㎡)の池泉回遊式庭園である。

庭園は三つの池からなっているが、二池を矩形にした様式で鎌倉時代末期の様式の典形的なものといわれている。
一番大きい池を臥竜池といい中央の正面には「水月道場」(観音堂)に至る欄干付の反橋「無際橋」が架けられている。この橋の中央に切妻破風造檜皮葺四脚腰掛のついた橋廊がある。橋を中心に池泉の左右に三島配されている。橋は東と西に架けられ、無際橋に接近して亀島と池の西岸近くに鶴島が設けられているが、鶴島・亀島とも荒廃し池泉護岩も荒廃している。水月道場の西部に小山のような一大露厳がそそり立ち幽峻な趣きがある梵音巌となづけられている。

蓬莱に見立て、岩山の上に霊擁という小堂がある。堂の下から岩盤を伝って滝を落としている。山間を利用した庭園様式で独得な景観として大変美しく静寂である。 池泉は荒廃がひどく、石組など細部手法を検討する必要がある。鶴鳥は全く原型がなく、荒廃している。

故澤田天瑞氏は、永保寺庭園について禅の境地を具現したもので、永保寺庭園から発展していった禅林庭園が南禅寺南禅院庭園、西方寺庭園、天竜寺庭園と展開していったと記している。 日本庭園史大系(重森三玲著)によると、作庭当初の局部意匠は消滅し荒廃が加わり、池泉が昭和初年頃の書院改築に伴い大きく改造された。しかし、池泉全体の地割意匠や多彩な様式を表現しているこの庭園は、資料的庭園及び貴重な作品であるとしている。 本庭が今後改造されることなく、資料的に保存され修復(資料が発見された場合)されるまで現在の庭園のまま保護されることを期待する。

※参考文献 日本庭園史大系 重森三玲
緑風20周年記念誌「中部地方の庭園」(澤田天瑞)

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